LOST LETTERS vol.3 『映画が撮れたら』

 

記憶が最近抜け落ちる。夢中になってたことも、没頭していたことも、観ていたはずのことも、なかったようになってしまう。人から聞かされて、「あぁ、そんなこともあったな」とようやく思い出したりする。思い出すまでは、なかったことと同じなのに気付き戦慄する。なるべく覚えていたい。言語化したはずの考えは全部消えてしまった。下らないと勝手に決め付けて。思い返そうと思っても頭の中には断片しかない。いかに思考が自分にとって瞬間的なのかを身につまされた。忘れるからいいこともあるのかもしれないけれど、忘れてはいけないこともある。くぐもった憂鬱さ、戻りたくても戻れない過去。

 

クレール・ドゥ二『美しき仕事』1999年

 

度肝を抜かれるくらいに衝撃をうけた。経験したことのない美しさに驚愕した。曲線と直線が完全に調和し、肉体と自然の境界は溶解し、新たな身体とでも言うべき純然たる美しさのみが映し出される。自らの肉体、他者の肉体だけが身体なのではなく、歩くこと、話すこと、それら含めた身振り手振りに必要不可欠な関係を持つ外的存在も含めて身体なのだと言わんばかりに、溢れる太陽にも、静かで厳しい海岸にも、鈍く眩いコンクリートにも、灼熱の砂漠にも、映画の主人であるドニ・ラヴァン演じるガルーと兵士たちと同等に、蠢めく感情、思想、情念が映し出されるすべてに付与され、結晶化し、異常なうねりとなって襲いかかってくる。


「他人を演じてはいけない、自分自身を演じてもいけない。誰を演じるのもいけない。」

 

ロベール・ブレッソンはシネマトグラフ覚書でこう記しているが、『美しき仕事』における"役者"は誰かを演じるのではなく、決められた規律と身につけられた反復する動作(訓練)のリズムと止めることの出来ない歪みで崩れていく感情のリズムに従事し、動作が本来持つ意味を排除して、90分間、一つの線を描くかのように身体を拡張している。

クレール・ドゥ二は言う。

「ドゥニ・ラヴァン演じるガルーという登場人物と彼の思い出、そして外人部隊という強力な戦闘部隊についての映画を撮ろうとしたとき、戦闘シーンのある戦争の映画としては表現できないと思いました。そうではなく、戦闘的動きの緩慢なる変化としてのダンスを通して表現したいと思ったのです。」

誰もいない空っぽのディスコでドニ・ラヴァンが一人狂い踊るラスト・シーン、自分たちの制服にぴっしりとアイロンをかけるシーン、水中での戦闘訓練、地面を掘り続ける兵士たちの側を通り抜ける移動歩行者の群れ、そしてそこで交わされる濃密な視線の鈍重さ。どれもこれも自分の人生の最後まで記憶に焼き付けておきたい。そのために何度も見返そうと決めた。

 

カベヤシュウト

1991whatmanodd eyesDJ、ビデオ、ハードコア・パンク
https://twitter.com/whatman_

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