LOST LETTERS vol.1

40杯のビール、燃え尽き灰になった会話、散り散りになった財布。終わらせ方の分からなかった昨日の残骸。

後先考えずに「やる。」って言ってしまうのは自分の悪癖の一つ。
事後承諾で、やるから。と瞬間の熱で出まかせ並べて、こういう感じだからよろしく!いつまでにやればいい?分かった!頑張ります!
その時は勢いよく答えるのの、一ヶ月経っても何もやらず、やらなければと焦りを感じ、勝手に苛まされていく。
思えば、自分が苛まされることで他人に由来するものはほとんどない。
辛くなったり鬱屈とするのは、大体が自分によってもたらされている。


1985年 レオス・カラックス
『ボーイ・ミーツ・ガール』

この映画には、せせこましさは一切なく、身を委ねれば、静かな孤独に満ちている。
気を引かれる騒やかで詩情が横滑りする観念的な台詞群は音節な記号でしかなく、どうでもいい。

不自然なまでに身を投げ出すライティング、意識が飛ぶようなジャンプ・カット、映し出されるすべてを均質に扱うショット、これらも特段何かあるわけじゃないし、珍しくもない。
凡庸な眼差しでもって領域を行き来しようとする関係も何でもない。
自分が惹かれるのは、ありえないぐらいの身体性を映像、役者(ドニ・ラヴァン)、音響が持っていることだ。

身振り手振りが仰々しいとかそういうことではなく、感情が肉体化したかのような、断絶した、連続性のない、本来なら透明で曖昧なものを、身体でもって、いや身体そのものを感情化させている。

壊れているかのような切迫を渦巻かせ、止まっている瞬間も常に動き続けてるかのように没頭し、自らのためにしか世界が存在していないと断言するかのごとく、アレックスとミレーユ以外の人物は不可解なまでに停止している。
口の動きとズレる会話と時間と場所を超え混線する音。それは記憶と実在が混ざり合う精神そのものであり、前も後ろもなく。ただ一点において連なっている。
感情に統合性はないし、他者は介入しない。それは自分自身でも分からないからだ。
アレックスが冒頭と最後にそれぞれ突き刺すナイフは、どちらも信じようとすることへの報復であり、冒頭が裏切り、最後は分かり合えない孤独への諦めに思える。後者が自身の意思ではないのは明白であり、意思を超えた所にしか愛は存在しないと切実する狭さを、劇中何度も登場する鏡のように反射させる。

分からないことへの真摯さ。分からないことは明晰さで持って
分からないまま肉体化させているから、脈絡はなくても、散漫ではなく、確固たる世界への意思を感じ、うちひしがれ、どうしようもなく熱狂してしまう。
自分にとって、それはハードコア・パンクの好きな部分と同じものだ。
だから見失いそうな時、何度でも見る。

本当に無理。マジで無理。やろうと思っても何もできないし、届かない世界を観せてくれるから、映画に託したくなる。
全くいいことではないと思うんだけれど。

二度とはこないような素晴らしい時間を過ごすこと。そのためのあなた、私、場所、時間。あらかじめ決めて、はみ出さないように乗っかること。思ったように生きていては手に入れることのできない何か。到底かなわないもの。

カベヤシュウト

1991、whatman、odd eyes。
DJ、ビデオ、ハードコア・パンク。

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